つくばに出会うまで

つくば在住29年、茨城在住31年、つくばでの暮らしが人生の大半となりましたが、つくばと出会うまでのことをお話しします。

働き者の両親と、10人の兄弟

カナダ、サスカチュワン州
 

360度地平線を見渡せる大平原の中の小さな村で育ちました。

カナダサスカチュワン州の小さな村で育ちました。生まれたのは父が学生をしていたカンザス州ですが、私のルーツは家族と暮らしたカナダです。両親は私を含む6人の実子に加えて5人の養子を迎えていたので朝から晩までずっと働いていたという印象です。
写真は家族全員(パートナー含む)が映った貴重なものです。ジョンがどこにいるかわかりますか?
 広大なカナダの中で、小さな村のインフラや福祉を充実させていくことは大変な努力が必要です。父が中心となって、近隣住民とさまざまな計画を立て資金を調達し人々の生活基盤を整えていく姿を小さな頃から見てきました。なので、つくばで家族を持ちコミュニティの一員として活動していくこと、そして人と人の距離が近く海外から来た私をあたたかく迎えてくれたつくばを愛し、尽くしたいと思うことは私に取ってごく自然なことでした。
 
答え:一番右の黄色のシャツがジョンです。

ルーツを探して世界各国へ

ドイツ、ウクライナ、ロシア、ヨーロッパ全土へ
 

ルーツをたどってドイツ、ウクライナ、ヨーロッパからアジア

私が育った村は、ドイツからウクライナ(18世紀末頃)そしてカナダへ移住(1920頃)してきた家族が多く住んでおり、ドイツとウクライナの文化を色濃く継承しています。両親の第一言語はドイツ語であり食卓にはボルシチやファーマーズソーセージ(農家のソーセージ)が並びます。
高校生の時交換留学生としてドイツを訪問し、その文化や歴史に魅了され卒業後すぐ戻り2年間でドイツ語を習得しました。写真は30年以上ぶりに再会した高校時代の友人たちと。ドイツで暮らしドイツを知ることでさらにウクライナに興味を持ちウクライナにしばらく滞在した後、カナダへ戻り大学へ進学し音楽教育とロシア語を専攻。音楽教育を先行したのは、どこの国に行っても音楽という共通言語があれば分かり合えると思ったからでした。

つくばで家族と

現金10万円を握りしめて、成田空港に降り立ってから31年

英語教育プログラムに応募したのがきっかけでした。

 大学を卒業して念願の世界を見て回る旅に出ました。イスラエルのキブツに滞在したり、フランスの農村で働いたり、その場に住んで地元の人と生活することで文化やその土地を学んでいきました。
 カナダに一時帰国した時日本の英語教育プログラムを知り、応募したことがきっかけで来日。成田に降り立ったその日から、日本の日本らしさに心奪われ31年になります。
 1991年、AETとして最初に赴任したのは牛久市。10万円はアパートを借りるだけであっという間に無くなり、慣れない気候で気管支炎を拗らせたのは今ではいい思い出です。本当に本当にたくさんの人に助けられ、英語教師として生計を立てられるようになり、貯金をしてつくば市に移り住んだのが1992年。1997年に起業と同時に結婚。2008年に日本に帰化しました。

つくば市議会議員として

初当選した時は、多くの取材を受けました。


 私が初当選した時は、まだ外国のルーツを持つ議員は3人目であり、選挙カーを使わない選挙活動が注目を集めました。選挙カーは日本で独特ですよね。素晴らしい秋晴れの週末を楽しんでいるファミリーの邪魔はできません。このポリシーはずっと変わっていません。
 選挙はこのたった2週間の選挙活動期間の結果ではなく、これまでの議員としての総決算だと思っています。議員でなくともいろんな形でコミュニティに貢献することで初めて支援いただけると思っています。県議会へのチャレンジはいつか立ち向かうべきステップアップだと思っていましたが、前回の市議会議員で圧倒的なご支持をいただき、皆さんの支援に対する責任を感じています。どうぞよろしくお願い致します!